昭和42年11月29日 朝の御理解


 第二十一節に「信心せよ 信心とはわが心が神に向こうのを信心と言うのじゃ。神徳の中におっても氏子に芯なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても芯がなければ火が灯らぬ。
 火が灯らなければ夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり」と。御理解21節です「信心せよ信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ」と、ここんところを毎日のように隣接教会の御大祭におかげを頂いておるのですけれども、大げさにいうようですけれども、疲労こんぱくというか、昨日あたりは私は最高でした。もう、若先生がおるならば、もう本当に昨日私は養生したいほどに体がきつかった。
 今日はまた、星野の教会で、山越えで、山越えというても歩いて行くわけではないですけれども、(?)皆さんと一緒におかげを頂くわけですけれども、ほんとにあの御大祭を拝ませて頂いて、又、祭員の先生方、もうお祭りが楽しゅうて楽しゅうてたまらんという感じですよね。他所の先生方。
 ああ、明日はどこですね、・・?もう本当に楽しゅうてたまらんような、雰囲気ですよ。もう、大祭月というたら、もう本当に皆さんうきうきしておられます。ね。それに反して私はもう、お祭りを勤めさせていただくそれがもう本当に術ない。きつい。それは、心身共にきついのです。ね。こんなことでは相済まんのですけれども、結局私はやはり、(?)けれどもです、その大祭が例えならもううれしゅうて、楽しゅうてというようにあっても、芯がなければ火が灯らない。ただ大祭がうれしい楽しいだけではいかん。本当に、もう本当に、もう、疲労魂魄というほどに体がきついのですけれども、そういう中からいつもおかげを頂いて帰ってくる。それが、(?)。嬉しいもなからなければ楽しいもない。どっちかというたら、あー今日もいかんならんというようなものですけれども、例えていうならそういう勤めてであってもきついあってでも、ね、その中からわが心が神に向かうておるのには違いがない。
 信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ、と。ですから、頂くところだけはちゃんとこう、頂いてくる。ね。やらせて頂いたおかげというものは、ちゃんと頂いて帰ってくる。

 ね。私は信心はどういう中にあっても、ね、それが自分の信心がやはり楽しいとかきついとか苦しいとかと、いう事はその時その事柄によってお互い違うのである。ね。ですから、そういう様々な中にあって、わが心が神に向かうておるのである。
 苦しければ苦しいほど神に心が向うておる。ね。そこに、芯が立つ。ね。心にやはり、芯がある。帰って神様にお礼を申させて頂きよりますと、それに例えば、カンテラの中に芯があって、とこうその転じたように、おかげを頂いてありがたかったという事になる。
 先生方の場合なんかもう、御大祭とは修行とは思うておられないようですけれども、私にとっては修行は本当に修行である。ね。修行であるから、それが本当に修行として頂いておるから、かえって、今日も修行をさせて頂いて有り難うございますという事になるのである。
 自分の心が何時も神様に向かって有るというのは嬉しい楽しい時だけではない。苦しい時も、心が神様に向かっておる。ね。例えばそれは嬉しゅうあっても、(?)そんな事はないでしょうけれども、ね、だからもう本当に、金光様の先生といえば他所の教会に言ったら、大したものですよね。私共のようなものにでももうそれこそ、下にも置かんようにして、なさいます。もう大坪さんの(?)はもうそれこそ、やっぱり、「大坪さん」にしか扱わなかったんですけれども、まあ、合楽の先生、合楽の先生というて、大事にしていただく。もうそこんところに本当にこう、信者と先生の間に非常にその開きを感じます。果たして信者と先生との間にそれだけ開きのあるような、信心がお互い出来ておるだろうかと、本当に思うてみると相済まん事である。

 先生の、神様か、信者の神様かと。信者に、先生ばっかりに働かせてござる。といったようなものではないと私は思うのです。ね。そういう中に、例えば、御直会を頂かせて頂くでも、本当にその、先生方の分は最高のおごちそうがしてあって、いわゆる酒魚が用意してございます訳でございますが、まあそんな事もありますまいけれども、もうその、酒魚が楽しいと言ったような事では、その、嬉しい楽しいが神様の方にむいておらん証拠ですよね。
 或先生、御直会、ところが御直会の中に一つ、器のものが足りなかった。私が足らじゃったろうがち、さあ、それも入れといて、、はあ、どうもすみません、裏から持って来てその、たらなかったものを詰めて、・・・・?まあ、そういうその、それが楽しみというわけではないでしょうけれどもです、まあ、それはその先生のことだから分かりませんけれども、どれほど、心を神様に向けてその、御大祭におかげを受けておるだろうかと。その前の日の宮の陣の教会の御大祭がお米が15俵あった。昨日は、16俵あった。段々おおなっていくわけですね。あそこに先生方、の一つの何かファイトを感じますですね。
 はあ、あそこは15俵だったから、という風なものも感じるですね。ね、ですからその、本当にその御大祭のその、中身というか、芯というか、これはまあその人その人といただき方が違いますから、そのお説教が始まりますと、せっかくお説教がはじまっておるのに、先生方は出てこられない。本当に有り難いお説教を頂いておるのですけれども、本当に出来た方達は違うと私は思いました。ね。いわゆるその、まあ、おかげを受けられる先生方は違うと、おかげを成る程受けきらん人達は違うというようなものをその中にはっきり感じますですね。

 ね。私にとっては本当に隣接教会のご大祭はもうとにかく億劫であり、同時にこれは苦しい事である。これが毎日続く事であるならばもう本当にあの、こっちがまいってしまうようにあるけれども、それでも私の心の中にはやはり、苦しいからこその信心が頂けておる。今日は、星野の教会ですが、あちらの教会で頂いた、いつか頂いた御理解に、「葉が出りゃつまれ、芽が出りゃかられ、それでも茶の木に花が咲く」
 私の場合はもう確かに御結界に離れたら芽を詰まれたような感じ。いや、それでなかなや葉を刈られたような感じです。それでもやっぱり私の心の中には花が咲いておるというような感じですね。
                              おかげを頂きました。